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愛することと祈り I・J 私は最近、小さいながらある経験を通して、人と人とが調和していくこと、愛し合っていくことの大切さ、そして真にそれが行えるのは祈りであるということを感じさせて頂きました。 それは数ヶ月前の話になりますが、今まではなんとも思わなかった人が、ある時からすごく気になり始めたのです。表面的にはこれまで通り仲良くしていましたが、その感情というものは多少なりとも相手に伝わっていたのでしょうし、時には不快な想いをさせてしまっていたかもしれません。また自分の想いの中では、相手を責める想い、それに対してまた自分を責める想いが出たりして、とても心が重たく感じる時期がありました。決して、その人は陰険な人でもなんでもなく、明るくていい人なのです。因縁因果ということは、以前からお話を聞いて理解していたつもりでしたが、その時に本当に過去世の縁というものは不思議なもので、その人がどういう人であろうと、気になる人は気になるものだということを感じました。そういう時期がしばらく続いた時に、自然に手をとって読んだのが高橋英雄先生の『如是我聞』でした。 その中で、特に次の項目が私の心に響きました。 調和を乱す心は、神のみ心をけがすことである。例えば、相手は悪く自分は正しい、という時、相手が無理難題を吹きかけ、意地悪をしてきた場合には「このヤロウ張りとばしてやろう」と思うでしょう。普通では無理もない感情です。しかしそれは自分の心を乱したことになるから、自分が損をすることになるのです。自分が損をするということは、神のみ心をけがすということになるのです。相手がどうだから・・・・・・というかもしれないけれど、相手とは関係ないのです。自分一個の問題なのですよ。 相手がどんなに悪い奴でも、いじめてきても、こちらが怒りの想いや、恨みの想いなどを出したりすれば、それは自分の本心を乱したことになるわけですから、神のみ心にかなわないのです。それが消えてゆく姿ということなのです。しかし、そうした想いは中から押し出されて出てくるので、縁にふれて出てきたら、消えてゆく姿だと思って、祈りの中に入れることです。一生懸命なくすように祈ることです。 (『如是我聞』高橋英雄編著 白光真宏会出版局) ここの箇所を読んだ時、祈りの道というのは本当にごまかしのきかないものだということを感じ、反省すると同時に何か重荷が取れたような感じがしました。 「人はみな神の生命の分れ」「本来一つのもの」「自分も他人も一つのいのちである」と五井先生はおっしゃっておられます。たとえ言葉で相手を傷つけなかったとしても、相手を責める想いをそのままにしておくということは、相手の生命を傷つけていることになりますし、そして相手を傷つけているということは自分の生命を傷つけているということになると思います。神様のみ心にない想いが出たら、消えてゆく姿として世界平和の祈りの中に入り、まず自らが調和の人になりきること。それ以外にないように感じました。 世界平和の祈りなくしては、本当に心を調和させること、人を真に愛することは出来ません。肉体の自分の想いというのは、やっぱり自分が一番だし、傲慢になってみたり、自己嫌悪に陥ってみたり、人によく見られたかったりするものです。そう思いますと、本当に祈りというものが、世界を平和にする鍵であることを強く感じます。 五井先生は『日々の祈り』の「人間は誰かに愛されたいのです」で、次のようにお書きになられています。 人間は愛されたいのです。人類すべてに愛が必要なのです。愛とは説教でも小言でもありません。柔らかい温かい明るい光の波であります。 全身全霊から愛の光がほとばしりでますように、愛の光でみちみちている自分になりますように、私たちの祈りは、世界平和の祈りを根底にして、こうした愛の祈りの日常生活でありたいものです。 (『日々の祈り』五井昌久著 白光真宏会出版局) ますます神様のみ心が現れ、愛深き私になるよう、消えてゆく姿で世界平和の祈りの道を守護霊さま、守護神さま、五井先生への感謝と共に進んで参りたいと思います。 (2006年7月 本部道場での「五井先生ご著書勉強会」より) |
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