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コスモス会は、五井先生提唱の「世界平和の祈り」を実践しているグループです


世界人類が平和でありますように

 神様の生命が真実の自分@   尾崎晃久



2011年10月23日、高殿法話会の後半で、五井先生の「神様の生命と自分」というご法話をテープで拝聴した後に、為された講話です。
(風韻誌用に一部加筆修正しています。)




 心臓や肺臓への感謝

 「神様の生命と自分」というテーマの五井先生のご法話でしたけれども、基本的な話ではありますが、一番大事なことなんですね。
 これまでの人間の考え方というのは、神様を信じているという信仰者であっても、神様と人間を別と考えて、遠く離してしまっていることが多いんですね。神様というのは、はるか天の彼方(かなた)にある、人間とは全然別個の離れた存在だと思っている向きがあるのですが、そうではなくて、この人間の肉体の中で、神様ご自身が、一瞬の隙(すき)もなく働いていらっしゃる。神様の生命が人間の肉体に宿って、肉体を動かしている。心臓を動かし、肺臓も動かし、神様の力によって、肉体は生かされているわけです。
 七月の拝聴会で、おそらく中学校の教師の方が、「子供達に神様のことや、生命の本質など、宗教的なことを、少しでも早くわからせるために、どういうような話を、どういうような点に注意して話したらいいでしょうか」と五井先生に尋ねておられました。
 子供達だけでなく、一般の宗教をやっていない人に話す場合、どうしたら良いかと言うと、まず、肉体の内臓のことから話すのがいいと仰しゃっておられました。
 「心臓は何も言わなくても動いているわね。肺臓だって、号令しなくたって、肺は呼吸しているねぇ。一々、気にしなくても胃腸は動いているね。そうすると、心臓や肺臓は、動かないと困るね」。そういう調子で言いますと、子供も「そうだねぇ」と、納得します。
 そうすると、「有り難いねぇ、心臓や肺臓が動いているのは。それじゃ、有難うと言おうね」。こういうように言うといいですよ、と仰しゃっておられました。
 この、「本当に有り難いんだな」というのが心に浮かぶというのが、もうすでに、宗教心なんですね。こういう言い方だと子供にもわかります。もっとも、子供が反抗期の難しい時期だと、親が言うことには何でも反発するかもしれませんが、そうでなければ、素直な子供であればわかると思います。
 まず、「心臓が動いてありがたい。肺臓が動いて、こうやって息ができて有難い。こうやって生きていて有難い。お金を払ってなくても、空気が吸えるね。いいなぁ空気、ああ上手いなぁ、空気がありがたい」。そういう素朴な感謝行に持っていくようにするのが、宗教の一番の近道であるわけですね。
 だから、子供に言う場合(大人でもですが)は、無理に神様や仏様と言わせようとしなくてもいい、大自然に対する感謝、大自然の運行や営みに対する感謝というのを伝えることです。
 内臓とか空気とか水とか、素朴なところから感謝させていくと、神様や仏様と言わなくても、自然に感謝しているうちに、神様や仏様というのがわかってくると五井先生は仰しゃっておられます。
 勿論、抵抗感がない子供には、最初から、神様という言葉をはっきり使って、神様への感謝を伝えてもいいでしょう。ただ、子供に、あんまり霊的な世界のことばかり話して、小さい頃から、そういう方面にばかり関心を持ちすぎますと、この肉体世界のことよりも、霊的なことにばかり興味を持って、地に足がつかない偏った人間になってしまうこともあります。子供の時というのは、他に経験すべきこと、学ぶべきことがたくさんありますので、誰にでもわかるような、素朴な感謝の心を起こさせるような伝え方が一番いいのだろうと思います。
 心臓が動いてありがたい。こういう心を深めていくと、生命の力によって心臓は動いているんだな。ああ、生命の力というのは、なんと素晴らしい、偉大なものなのだろう、という生命に対する畏敬の念、生命の神秘に対する憧憬(どうけい)の念になります。それを深く突き詰めていきますと、その生命というのは、神様のものなんだな、神様から来ている生命なんだな、神様によって生かされているんだな、という心になっていくわけですね。
 もっとも、ガチガチの唯物論者には、そういう単純とも思えることが中々わからないようです。神様という言い方に抵抗感がある人でも、心臓や内臓が、生命の力で動いているということは否定できないはずです。肉体の自分が、心臓よ動けと命令して動かしているわけでもない。心臓よ止まれと言って、止めることができるわけでもない。夜寝ているとき、自分の想念意識が休んでいるときでも、ちゃんと、生命の力が、肉体を生かしているわけです。
 だから、その事実を深く見つめて、神様という言い方が嫌なら、大生命の力と言ってもいい、大自然の力と言ってもいい。呼び方は何でも構いませんが、何か大きな力によって自分は生かされている、ということを感謝していけばいいのですけれども、中々、現代人の忙しい生活の中では、そういう根本のことを見つめる余裕もなく、肉体の自分の想いの満足だけ求めて一生が終わってしまう人も多いわけです。
 それで、唯物論的な考え方だと、肉体が生命の力で動いているというのは一応認めるかもしれません。だけれども、それを当たり前の自然の作用か何かと思って特別にありがたいとも思わない。そして、七十年、八十年で、肉体が死んで、心臓や肺臓が機能を停止して止まってしまえば、心臓を動かしていた生命も消滅した、こう考えるわけです。
 それだと、生命とは、たったの七十年、八十年で消え去ってしまう、なんとはかないものか、ということになります。そうではなく、生命というのは、永遠不滅のものであるわけです。
 ここからは、霊的な説明になってきますけれども、実は生命の働きは、肉体の中にだけあるのではなく、神体、霊体、幽体という微妙な波動の体を通って、一番末端の、肉体に働きを及ぼしているのであって、肉体がなくなっても、生命そのものがなくなったわけではない。人間は久遠(くおん)の生命を生きる存在で、亡くなってからも、異なる波動の世界で生活を続けるわけです。
 先ほどから、こういう話をしておりますが、私自身のことを話しますと、私は子供の頃はおろか、五井先生のみ教えに関心を持つようになってからも、心臓が動いて有り難いとか、そういう感謝はほとんどしておりませんでした。たまに、そういうことを思うことはあったかもしれませんが、心臓が動くとか、当たり前のことすぎて、あまり、それに感謝するということはありませんでした。
 五井先生がご本で、そういうことを書いてあるのを読むと、ふんふん、なるほど、その通りだと思いながら読んでいるわけですが、頭で理解することだけで満足してしまって、実際問題として毎日、そういうことを丁寧に感謝していたかというと、そんなことはありませんでした。
 ですけれども、最近は、ふとした瞬間に、ああ、今日も心臓が動いて、血液が体中に流れている、胃腸が動いている。今日も神様の力によって生かされているな、有難い、というのが自然と湧いてくる、そういう時が増えてまいりました。その当たり前の事実が、本当に奇跡のような、有難いことだとハッと思えるようになってきました。
 感謝しなければいけない、と思って感謝するというより、曲がりなりにも、世界平和の祈りを祈り続けてきた結果、祈りの中から、自然に、内催(うちもよお)しに、感謝の心がにじみ出てくる、湧いてくる、そういうようになってまいりました。
 今頃、そんなことを言っているのか、と思われる方もいるかもしれませんが、私は感謝の心が非常に薄い人間でしたので、今でも、他の人に対する感謝とか、欠けていると思いますが、そういう私であっても、世界平和の祈りを祈っていく中で、少しずつ、感謝の心を養わせていただいているなと感じております。(後半に続く)

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